1 本会は、明治35年に埼玉県出身の実業家である渋沢栄一翁、わが国最初の林学博士である本多静六博士らが発起人となって、朝野の浄財を集め、埼玉県出身学生を助けるため、寄宿舎の運営及び奨学金貸与等を目的として、当時の東京市牛込区(現在の新宿区)に設立された。初代会頭には渋沢栄一翁が就任した。

2 寄宿舎は、先ず仮寄宿舎からスタートし、明治37年には第一寄宿舎が、明治41年には第二寄宿舎が完成した。最盛期には、幼年寮、中年寮、青年寮と年齢別にわかれ、100名を超す学生が入寮し、3千平方メートルの敷地には、テニスコート、武道場などもあり、当時としては、設備の整った寄宿舎であった。

3 この間、戦前・戦後の住宅事情にあって、本寄宿舎の存在は、埼玉県民子弟の高等教育を側面から援助し、2千人を超す人材を世に送り出したが、築後60年を経過して老朽化するとともに、住居に対するニーズの変化と通学手段の利便化により、入寮者が年々減少した。

4 この現状に鑑み、寮に関する将来のあり方を慎重に検討した結果、99年間続いた寄宿舎設置の目的が達成されたものと判断して、平成13年3月末をもって寮を廃止して、その土地売却金を基金として、奨学金給与制度を創設した。

5 平成24年、第11代会頭坪井龍文氏(元内閣安全保障室長)の時に、内閣総理大臣から「大学生の誘掖指導その他一般修学生の便を図り、もって人材を養成し、国家社会に貢献を目的とし、その目的を達成するため、奨学金の給付、講演会、研修会を行うこと。」により公益財団法人として認定された。

6 沿革

(1)明治35年(1902年)3月 埼玉学生誘掖会設立総会
(2)明治37年(1904年)4月 牛込区東榎町(現在の新宿区)に仮寄宿舎設置
(3)明治37年(1904年)10月 牛込区砂土原町に第一寄宿舎竣工のため移転
(4)明治41年(1908年)2月 第二寄宿舎竣工
(5)明治44年(1911年)5月 財団法人 埼玉学生誘掖会 文部大臣認可
(6)昭和 7年(1922年)11月 初代会頭渋沢栄一翁逝去 
(7)昭和12年(1937年)4月 寄宿舎の建替えによる新宿寄宿舎運用開始
(8)昭和41年(1966年)7月 東京都教育委員会へ移管 
(9)平成13年(2001年)3月 砂土原寄宿舎の廃止
(10)平成15年(2003年)4月 奨学金給与事業へ転換
(11)平成15年(2003年)7月 第1回奨学生5名採用
(12)平成19年(2007年)3月 第1回奨学生4名が卒業(5名採用のうち1名は医学部のため在学)
(13)平成24年(2012年)4月 公益財団法人へ移行認定

7 砂土原寮跡地の今

 砂土原寮は、東京都新宿区砂土原町3丁目21番2号にあったもので、明治37年に本寄宿舎が、同41年に第2寄宿舎が建築され、最盛期には100人を超える寮生が生活しておりましたが、昭和12年に鉄筋コンクリート2階建(約200坪の敷地に延べ床面積約500平方メートル)の学生寮に改築されて、平成13年3月末ま で、運営してきました。この間、埼玉県民子弟の修学を住居の面から支援してきましたが、近年の住宅事情の 好転と通学交通手段の発達によって、寄宿舎として役割を終えたので、平成13年3月末をもって学生寮を閉 鎖し、その跡地売却資金を原資とする奨学金給与事業に転換して、今日に至っております。
 その跡地には、「市谷逢坂ハウス」なる3階建てのマンションが建築されており、往時の寮の面影はありませんが、そのマンション玄関前の公道に面したところに、この地に砂土原寮があったことを記す次の「記念標識」が埋設されております。

明治33年3月15日埼玉県の朝野の有志(渋沢栄一(青淵翁)、本多静六、諸井恒平氏等が中心となって)が埼玉学生誘掖会(明治44年財団法人の認可)を創設、都内で修学する学生のために明治37年寄宿舎を建設し、昭和12年には鉄筋2階建てに改築し、平成13年まで存続した。その跡地は売却され、財団法人埼玉学生誘掖会の奨学金事業の基金となる。
(注)「誘掖」とは、導き助けるという意味である。
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